マイノリティという生き方 | エフ カウンセリングオフィス

マイノリティという生き方

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人と違うことを言ったり行ったりするのには勇気と覚悟がいります。
なぜなら好奇の目で見られたり、批判されたり、仲間外れにされたりする危険が伴うからです。

目立ちたいからでも、自分をひけらかしたいからでも、ましてや自慢したいからでもないのに、
なぜか叩かれてしまう…。
それ以前に理解されない、共感されない…。
変人、奇人と言うレッテルを張られてしまう。
人知れずこっそりと、見つからないように、ひっそりと息をひそめていたい時もあるのに、放っておいてくれない。
ちょっかいを出されたり、ひっかき回されたりする。 なにか汚いものでも見るような目で、チラ見される。
陰でコソコソと噂をされる。
面白おかしく尾ひれをつけて噂をばらまかれる。
多数派の人間の目には、少数派の人間<マイノリティ>が得体の知れないものに映るのだろうか。
常識や理解を超えた存在に思えるのだろうか。
自分と違うものが怖いのだろうか。
何が彼らを恐怖に駆り立てるのだろうか。
マイノリティたちの何が、多数派たちの心を揺さぶるのだろうか。
マイノリティたちのありのままの存在を直視しているうちに、多数派たちは言いようのない不安を感じ始める。
自分の中に不安というものが存在しているのを思い知らされる。
そう、だからマイノリティという生き方が、多数派たちにとっては自分の心の平穏を脅かすモノに 思えてしまうのだ。
そして、マイノリティたちの中にかすかに光るものがあるのに気が付く。
その正体は不明だ。
その光の正体を確かめたくなってそっと近づいてみると、なぜかその光は見えなくなってしまった。
あきらめてそこから離れると、再び光がチラチラと見えてくる。
触れるようで触れない、手が届かない。
ふと自分の足元を見ると、そこには境界線が引かれてある。
向こう側とこちら側・・・。
私の足はこちら側にとどまっている。
そうだ、この境界線を踏み越えたら光に手が届くのかもしれない、そうに違いない。
通行止めの標識も、立ち入り禁止の標識も何もない。
超えるのは自由だ、超えてもいいのだ。
なんだか怖い気もするが、思い切って右足だけ境界線の向こう側へ踏み入れてみた。
でも、まだ私の手はあの光には届かない。
やはり両足を踏み入れなければダメなのだ。
どうしよう?
超えようか、超えずにここに留まろうか。
右足だけ向こう側に置いたまま、私は立ちすくんでいる。
いつまでも体を動かすことができないでいる。    

どっちの側にも自分の居場所を作ることができずに、流浪の民となって私は放浪の旅を続けています。

眩しく光るマイノリティという生き方に憧れにも似た気持ちを抱きながら、
いつ終わるともしれない旅をこれからも私は続けていくのでしょう。
最後にたどりつくのは何処でしょうか・・・。  


Posted on: 4月 27th, 2012 by エフ カウンセリングオフィス No Comments