どこまで人を信じるか | エフ カウンセリングオフィス

どこまで人を信じるか

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なにかを信じるということは勇気がいりますね。
その対象が「人」であればなおさらです。
誰かを信じてみようとするとき、そこには常に「裏切られるかもしれない」という不安が付きまといます。
信じていたのに裏切られた。

経験したことのあるひとなら、その時の悔しさ、惨めさ、怒りなど、説明しなくてもお分かりですよね?
そして何より「こんな人を信じてしまった」自分が許せなくなります。

なぜ信じてしまったのだろう?
なぜ疑ってみることをしなかったのだろう?
なんて自分は浅はかなんだろう。

こんな思いが湧いて来れば来るほど、自分を裏切った相手に怒りをぶつけたくなってきます。
私も経験があります。
悔しい思いをして、相手をののしりたくなるような気持になったことが・・・。

そして最後は、簡単に信じてしまったバカな自分を呪います。
ところがですね、別の角度から見てみるとハッと気づくことがあったんですね。

じゃあ私は、いつも、いつでもられに対しても100%信じてもらえる存在だっただろうか?」
こう問いかけてみるとよく分かるのです。
気分や感情、考え方、そして信念や価値観いったものまでが、「常に動かずにいるわけではない」ということが。
(あくまでも私の場合です、念のため)

だとすると、私を信じてくれた人の期待や思いを「裏切っていた」可能性が非常に高いわけです。
「このひとはきっとこういう人なんだろう。だったらきっとこうしてくれるに違いない。信じてみよう!」
私に対するこの期待を、ものの見事に裏切ってきた可能性が大、なのです。

なぜ相手の期待を裏切ることになってしまったのか?
私の、こちらの、気が変わってしまった、からだけではありません。
私は他人に、「私のすべて」を見せてはいなかったからなのです。
そもそも、自分のすべてを人に見せることなどできません。
なぜなら、自分でもよく分かっていない「いろんな自分」が自分の中には存在するからなんですよね。
だから、外に見えているのはその人のほんの一部分にしか過ぎないのです。

その「一部分」だけを見て、その人のことを「すべて信じる」。
そして、その結果に一喜一憂するというのは、どうもピントがずれているような気がしてならないのです。
そもそも「信じる」ってどういう事?という疑問もわいてくるわけです。

いろいろな人がいろいろな言葉で表現していますね。
私だったらどんな言葉で表すだろうか?と考えてはみるのですが、
ひとことで言い表せるような言葉は思い浮かびません。
ただ、信じたことで事態がどう動いていくか、最後まで目をそらさずに「その結果」と付き合う。
そんな覚悟は持ちたいな、と思います。

覚悟とは、自分の気持ちや感情に蓋をしないでそれを見届ける、という事でもあると私は思います。
誰をどこまで信じるか。
マニュアルなんてものはないし、ましてや「正解」もないでしょう。
だからこそ、誰かの真似ではない自分ならではの「選択の自由」がそこにはある。
そういうことではないでしょうか。

プレッシャーと受け取るか、チャンスと捉えるか。
それもまた自分次第、自由です。  

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Posted on: 10月 23rd, 2012 by fc-office-test No Comments